どんどん、どんどん、言葉が流れてゆく時代。日常的な言葉にも意味がある。インターネットの世界で話題となり、映画『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を綴った、今話題の詩人・最果タヒさん。彼女に詩を書き始めたきっかけ、日頃の執筆、詩を書き続けてきて「変化」したことについて聞きました。
──最果さんが詩を書き始めたきっかけを教えてください。
中学生のころからインターネットが好きでした。そのころにサイトでいろんな文章を書いている人たちが楽しそうに見えて、自分も書きたいと思い、日記レンタルサイト(今でいうブログ)に投稿するようになりました。ただ、私はまだ中学生で、変わった趣味も特技もなかったので、書けることがなくて(当時は日常のことをただ書くような人はネットにいなくて、何か特殊な人が記事をアップしているっていう感じでした)。しかたがなく思いつくままに、脈絡とかも気にせずに言葉をガシガシ書いていました。それがあるとき「詩みたいだ」っていわれて、それから「詩なのかな?」って意識するようになりました。
──『死んでしまう系のぼくらに』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』など、数々の代表作がありますが、今と昔で詩のテーマは変わっていますか。
特にテーマは意識しないです。何を書きたいか考えて書くことを、まずしたことがなくて。私がネットで書き始めたときは、それが「詩である」とも思わずに、ただ言葉を好き放題に書いているという認識でした。日常会話ではどうしても、相手の期待にこたえようとしたり、その場にあるテーマに従おうとして、思ってもいなかったことを言葉にしてしまったりしていたのですが、ネットで書き始めた言葉はその反動で、「何も考えずに書く」ということに比重が置かれていたように思います。今もそれはあまり変わりません。書いていてたのしいな、と思うのは、今でも「思いもよらない言葉」がパッと出てきたときです。そういうときに「言葉が詩になった」と思います。
──書いてきた詩が変わった、と思ったことはありましたか。
8年ほど前、私は今に比べるとまったく読まれていなかったのですが、そのころに別冊少年マガジンの編集者さんから詩の連載をしないか、と声をかけていただきました。それまで私はネット以外だと、詩の雑誌や文芸誌でしか詩を書いたことがなくて、漫画雑誌での連載はあまりに新鮮でした。連載には漫画家やイラストレーターの方に絵も描いていただいていたのですが、それも自分の詩がこの人たちの目に触れるのだ、と思うと、緊張もしました。これらの作品は『空が分裂する』(新潮文庫nex)に収録されています。
これまで私は詩を書いていて、自分が何をしようとしているのか、それがわからなかった。言いたいことがあるわけでもテーマがあるわけでもない、それならこの言葉はなんなのか? 自分から出てきているのではない気がする。でも、書いているのは私なわけで。自分の作品がどうやって内から出てきて、外へと向かっているのかイメージできなかった。けれど、漫画雑誌で書き、別の業種の方とページを作っていくことで、自分の詩を読む人たち、という存在がかなり具体的に見えるようになりました。これまでも読んでくれる人たちはいたのですが、そうした人たちよりだいぶ遠い存在の人たちが、読者になって、そのことが私に客観視をさせてくれた。そうして私にはそれがとても心地よかった。言葉がはっきりと、自分のものではない、他人と自分の間にあるものだ、と思えたのです。
私が脈絡を気にせずに言葉を書くことが心地よいと思ったのは、言葉が自己表現やコミュニケーションのためだけにあるものではなく、もっとなんの目的もなく、ただぼんやりと、自分と他人の間に横たわっているのだと感じ取っていたからでした。別になんの意図もなくても「さよなら」って道に書いてあれば、通りすがりの人たちはそれを見ると少しさみしくなる。言葉って、それ単体で、たくさんの感情や経験が紐づいていて、それ経由で人は言葉に触れている。それならば言葉を、意図や意味から引き剥がして、ただそれそのものとして動かしていったとしても、それもまた、誰かの心へと届いていく作品になるのではないか、と思ったのです。そうして、それは書き手と読み手の間にあった言葉が、完全に読み手のものへとなっていく瞬間だとも思いました。読み手の心情や経験を通じて言葉は解釈され、その人だけに見える形に変わっていく。そういうものを私は理想としているんじゃないかって、気づき始めたのがこの別マガでの連載でした。
──9月に発売された新刊『天国と、とてつもない暇』(小学館)はどのような詩集ですか。
これは、「本の窓」という小学館のPR誌に連載していた詩を中心にまとめた詩集です。それ以外にも、ルミネのクリスマスキャンペーンで書いた詩なども収録しています。この本を出す前に、清川あさみさんとの共著で現代版の百人一首『千年後の百人一首』(リトルモア)を刊行しました。清川さんが糸やビーズを使った新しい絵札を、私が詩の言葉で、小倉百人一首をすべて訳していく、というものでした。私の訳は、依頼されたときに「訳でもあり詩作品でもあるものを」と言われていたので、ただ言葉を正確に訳していくというよりは、その歌を作者が詠みたいと思ったそのときの衝動をなぞっていき、自分もその衝動で言葉を書いていけたら、と思いながら訳していました。
百人一首の歌にはさまざまな感情が詠まれているのですが、それらすべてに完全に「共感」することはできないのです。やはり、それぞれが違う人生を生きていますし、それぞれがそれぞれの体で感じ取ったものなので。けれど、共感できないことと、近づけないこと、はまったく違うとも当時、思っていました。わからないけれど、それでもその人がそこに生きていて、そう感じてしまったということ、そのことだけは強く信じられる、という瞬間がなんどもあり、それはただ「わかる」と思うことよりも、むしろ深く歌に潜れた気がしました。『天国と、とてつもない暇』は百人一首を訳した後と前の詩が収録されているので、そのころに思ったことは、強く影響していると思います。
ただ傷口や、悩みに効いていくというよりは、もっと深く、肉や血や骨といった、そういう場所に、最初からあったであろう「何か」にまで届く言葉でありたいと思っています。この詩集『天国と、とてつもない暇』もそうであればいいな、と思います。
──これから、どのようなものを書きたいと思いますか。また、今後の活動予定など教えてください。
詩は書き続けていたいと思います。
ただ、どういったものを書きたいか、ということは決めておきたくないというか、ただ書くということを貫けていけたらいいなと思います。それだけでありたいと願っています。
これからの予定ですと、百人一首を訳す際に感じていたことを綴ったエッセイ集『百人一首という感情』(リトルモア)が、11月に出ます。百人一首に詠まれている感情や感覚は、ほどいていくと、今の人と変わらないんだな、と思うことが本当に多いんです。たとえ共感できないことでも、時代が違うからわからないというより、意見が合わない友達と話していて「それはわからんけど、でもきみはそう思うんやね」って受け止めるときのような気持ちになりました。それは歌の向こう側にはたしかにその人が生きた時間があり、感情があったからこそだと思うのですが、私はその人たちと向き合って、その人に向かって言いたくなったことや、言えないけど思ったことを、書いてみました。ぜひ読んでいただきたいです。
──────さいごに、最果タヒさんに詩を書いていただきました。
最果タヒさん
2008(平成20)年、『グッドモーニング』で中原中也賞を受賞。2015年、『死んでしまう系のぼくらに』で現代詩花椿賞を受賞。詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、エッセイ集に『きみの言い訳は最高の芸術』、小説に『星か獣になる季節』『少女ABCDEFGHIJKLMN』などがある。2017年のルミネのクリスマスキャンペーンでは詩を執筆。2018年9月には最新詩集『天国と、とてつもない暇』を出版。また、11月にはエッセイ集『百人一首という感情』が発売予定。